『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ著 小松淳子訳

読書と脳の関係を科学的に解明した刺激的な本。『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』(インターシフト/2008年)は、ディスレクシアを知る上でも、脳とは何かを考える上でも非常に重要な1冊です。
黒坂真由子 2026.05.04
誰でも

 サポートメンバーの登録により、発達障害についての継続的な発信が可能になります。メンバーとしてのご登録をお願いいたします。メンバーシップは、無料、有料から選べます。概要について、詳しくはこちらをご覧ください。

 ご検討いただける場合は、下記ボタンからお進みください。

●脳は読書でつくられる

 「読書は脳をどのように変えるのか?」

 これは本書の翻訳タイトルの一部です。さっと読み飛ばしてしまいそうですが、よくよく考えると不思議なことを言っていることに気がつきます。つまりこれは、「脳は読書によって変化する」と言っているのです。

 著者は「読書で知識を得ることで賢くなる」という抽象的なことを言っているのではありません。読書という行為自体が、「物理的に脳を変える」としています。

 私たちは読書をすることで、脳をつくっていることがわかってきました。技術の進歩によって、物理的な脳の変化を科学者たちが実際に見ることができるようになったためです。

 著者は「ディスレクシア・多様な学習者・社会的公正センター」所長を務めるメアリアン・ウルフ博士。ディスレクシアの先祖がいること、自身の子どもがディスレクシアであることから、研究を続けています。認知神経科学、発達心理学を専門とし、その視点から、文字を読むという行為について深く掘り下げていきます。

 わたしは本書を認知科学者の今井むつみ先生に教えていただきました。以来、いつでも本棚の手に取れるところに置いています。

*クリックでAmazonへ移行します。

*クリックでAmazonへ移行します。

●読み書きの歴史を探求

 著者の探求は読み書きの歴史から始まります。

 読み書きが始まったのは、人類の歴史の中で見れば「つい最近」のことです。約5000年前のオリエント(中東)で、シュメール人の書いた楔形文字が見つかっています。人類の誕生が30〜20万年前のことだと考えると、読み書きの歴史がほんの少し前でしかないことに驚きます。人類が存在していた時間の少なくとも97%は、文字のない時代だったわけです。そして現在でも、文字を持たない言語はたくさんあります。

 読み書きをせずにずっと生きてきた私たち人類の脳には、「読字中枢」なるものはありません。生まれつき、文字の読み書きができるように私たちの脳はプログラムされていないのです。ディスレクシアが脳に関する障害だといわれると、なんとなく「脳の中で、読み書きに関わる領域が損傷しているのではないか」と考えてしまうかもしれません。ただ、私たちの脳は、ある一箇所の領域で読み書きを行っているのではありません。脳の中の複数の領域のネットワークによって、読み書きは支えられています。

 では私たちはどのように読み書きの能力を手に入れているのでしょうか。それは「持っているものを工夫して」というしかありません。脳にそもそも備わっている機能、例えば物体を認識する力や名前を検索する能力など、文字のない世界で使っていたもともとある機能を、なんとかつなぎ合わせて読み書きの能力を作り上げているのです。

 著者が脳を「オープン・アーキテクチャー」に例えているのはそのためです。著者は次のように述べています。

今では、私たちが新しいスキルを習得するたびに、一群のニューロンのあいだに新しい接続と経路が造り出されることが分かっている。コンピュータ科学者たちは、さまざまな要求に合わせて変化できる、つまり再編成できる、多目的なシステムを呼ぶのに、“オープン・アーキテクチャ”という用語を使っている。人間の遺伝的遺産に限って言うなら、私たちの脳こそ、オープン・アーキテクチャの素晴らしい例だ。この設計のおかげで、私たちは生来備わったものを変化させて進歩する能力を携えて、この世に生まれ出てくるのである。

『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』

 つまり私たちは、「生来備わった能力」を「読み書きができるように」変化させているわけです。脳の中に新しい接続と経路を作り出すことで、読み書きという新たなスキルを手に入れているのですね。

●言語によって、使う脳の部分が違う

 使う言語によって、脳の活性化する部分が違うと著者はいいます。

 例えば音とアルファベットの組み合わせが複雑な英語は、言語を扱うのが得意な左脳のあらゆる部分を駆使しています。

 面白いのは、中国語です。漢字を読むために、中国語話者は視覚を担当する後頭葉を主に使います。イメージを担当する後頭葉全体を使って、脳は漢字を扱うわけです。

 では、日本語はどうでしょう? 

 漢字だけを読むときは、中国語の読み手と同様の経路を使うといいます。皆さんも今、漢字を読んでいますが、その時には後頭葉が全体的に活性化しているわけです。ひらがなやカタカナを読む時は、英語の読み手に似た経路を使うといいます。ですから、左側の脳です。

 このような脳の使い方の違いを見ると、「文字を読む」という能力が生まれつきのものではない、ということがだんだんと理解できるようになるはずです。日本人に生まれたから「日本語脳」を持つのではなく、「日本語を使うから日本語脳になる」のです。

 文字を読むための脳や回路は、成長の中でつくられ、より強化されていくのです。

●ディスレクシアの原因は?

 ディスレクシアの原因は、一つではありません。 本書では原因として4つの仮説を説明しています。

 一つ目は、脳機能の損傷。これは過去によく持ち出された仮説です。脳のある一つの領域を示し、「この部分の損傷が原因だ」という議論です。今ではあまり語られていないと思います。

 2つ目の仮説は、処理速度の不足です。

 読字をする際に、脳は様々な箇所を総動員しますが、それらのどれか、またいくつかの処理速度が遅ければ、スラスラと読むことはできません。本書では、ディスレクシアの人々は視覚情報の処理速度が遅いといった研究や、複雑な音声を処理する場合に速度が遅くなるとした研究が紹介されています。

 また処理速度が遅いだけでなく、視覚プロセスと聴覚プロセスの間に「時間のギャップ」があるとした研究もあります。見る、聞くに関する脳の領域がシンクロしないために、うまく読めないのではないかということです。

 3つ目の仮説は、ネットワークの接続の問題です。

 例としてムッシュXという人が取り上げられています。ムッシュXはある日脳卒中に見舞われます。そして視力に問題が生じなかったにも関わらず、「単語を読むこと」「色の名前を言うこと」などができなくなってしまいました。ムッシュXはこの脳卒中で「脳梁」という左右の脳をつなぐ繊維の束を損傷しました。そのため、見たものを左半球の「言語野」などに伝えることができなくなっていたことがわかりました。

 「見えるのに、読めない」「見えるのに、名前が出てこない」ということがおこったのは、脳内ネットワークの接続の問題だったのです。同じような接続の問題が、ディスレクシアにも起こっているのではないかと考えられています。

 ちなみにムッシュXは、再度脳卒中を起こしています。2回目には、完全に読み書きの能力を失いました。この2回目の脳卒中で、ムッシュXは「角回」にダメージを受けました。「角回」は一次視覚野で処理された文字情報を、意味的に処理する脳の領域です。この場合、最初の仮説に当てはまります。ある脳の領域の損傷によって、読み書きができなくなるという例だからです。 

 この部分を読んでいて、ふと思い出したことがありました。

 私の祖父は晩年、突然「漢字が書けない」という症状に見舞われました。「なんだか、漢字だけ書けなくなっちゃったんだよ」という祖父の年賀状は、すべてひらがなで書かれていました。あくまで私の推測ですが、もしかするとなんらかの脳のネットワークの障害が起こって、祖父の脳は漢字の出力だけがうまくできなくなっていたのかもしれません。もしくは第一の仮説にあるような領域の障害、例えば漢字を扱う領域が損傷されたのかもしれません。

 日本語が、ひらがなと漢字を別の部分で主に処理しているとすると、ネットワークの障害にしろ、ある特定の領域の障害にしろ、このような症状は起こり得るのかもしれません。(当時はぼんやりと、「そんなことがあるんだ」と思っていただけでしたが)。

 第4の仮説は、右半球が優位である、というものです。

 本書によると、ディスレクシアの人々が異常なまでに右半球に依存していることを示す研究が数々あるといいます。通常は左半球が行う読字における処理も、ディスレクシアの人々は右半球に頼っているのではないか、という可能性が示されています。

 もし、ディスレクシアでは右半球優位の読字回路が働いているという、この新しい考え方が一部の子どもたちには当てはまるとしたら、そうした子どもたちのディスレクシアの脳は、綴り、音韻、意味、統語、推論のプロセスを普通よりゆっくりと見、聞き、検索し、統合しているだけではなく、それらすべてを、時間的な精度とは無縁に設計された脳半球にある構造物から成る、普通とは大いに異なる回路を使って行っていることになる。

(同上)

 ここでいう「時間的な精度とは無縁に設計された脳半球」というのは、右脳のことです(右脳と左脳の違いについては、こちらの記事をご覧ください)。文字言語と音声言語を、素早いタイミングで処理できるように進化した左脳ではなく、創造性やパターン、文脈のような、「大きな絵」を扱うことを得意とする右脳を読字に使っている可能性がある。これはとても興味深い内容です。

 ディスレクシアの原因は一つではありませんし、確定された原因は今のところありません。ただ、脳における画像や音韻処理の問題、左脳の読字のネットワークの問題、処理速度の問題などが原因ではないかとされているのは、現在も変わりません。

 ディスレクシアの原因は、複雑な脳の働きの中にあり、理解するのも一苦労です。知能の問題や目の問題ではないことはわかっても、本当に何が原因なのかを特定するのは難しいようです。

 この本は決してやさしいものではありませんが、「読む」という行為そのものを掘り下げることで、私たちが当たり前だと思っている「読む」という行為の複雑さを示す内容になっています。最初から読み始めて、途中で苦しくなったら、ディスレクシアのことを述べた第7章へ飛んでもいいと思います。

 読めるというのは本当にすごいことで、当たり前のことではない。私はこの本を読んで、心の底から思えるようになりました。

●タイトルに込められた思いとは

 本書は『プルーストとイカ』という非常に変わったタイトルがついています。これは読書を知的な「聖域」と考えたプルーストと、初期の神経科学においてモデル生物となったイカを取り上げたものです。イカの軸索が太くて研究がしやすかったようですね。

 著者は、泳ぎが苦手なイカが脳神経科学の発展に寄与したことをもって、読むのが苦手な脳を研究することで、読書という聖域のありかたを解き明かす役に立つ、と言っているのだと思います。そしてそれは、限りない脳の可能性に扉を開く研究になっているのかもしれません。

書記言語を習得できない脳の原因を探れば、その働きを別の角度から見ることができるようになる。素早い泳ぎを習得できないイカの中枢神経系が、泳ぎに必要なものを教えてくれるのと同じだ。その逆も言える。文字を読む脳について理解すれば、ディスレクシアを別の観点から見直すことができるのだ。こうして両面から検討を進めるうちに、知能の進化に対する視野が広がっていく。そうすれば、読字をはじめとする文化的発明は、脳が秘めている驚くべき可能性のひとつの表れに過ぎないことが見えてくる。

(同上)

気に入っていただけたら、記事のシェアで応援してください。

記事を読み逃さないための登録はこちらから。

無料で「黒坂真由子の発達障害レポート」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
2年目を迎えて
誰でも
『宙わたる教室』 伊与原新
読者限定
息子が自閉スペクトラム症と知って 第3回 理解してくれない祖母との関...
読者限定
息子が自閉スペクトラム症と知って 第2回 「当たり前」のプレッシャー...
読者限定
息子が自閉スペクトラム症と知って 第1回 幼稚園に入れない
読者限定
「DSM」とは何か?
誰でも
『奇跡の脳』ジル・ボルト テイラー (著) 竹内 薫 (翻訳) 新潮文...
サポートメンバー限定
「算数障害」のある娘。コンセプトは「学習を諦めない環境づくりの維持」(...