自閉スペクトラム症の世界を伝える 翻訳者 上杉隼人 の仕事(後編)
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●プロフィール
上杉隼人 Hayato Uesugi
翻訳者(英日、日英)、編集者、英文ライター、通訳、英語・翻訳講師。早稲田大学教育学部英語英文学科卒業、同専攻科(現在の大学院の前身)修了。訳書にマーク・トウェーン『ハックルベリー・フィンの冒険』(上下、講談社青い鳥文庫)のほか、ヴィクトリア・ロイド=バーロウ『鳥の心臓の夏』(朝日新聞出版)、ジョリー・フレミング『「普通」ってなんなのかな 自閉症の僕が案内するこの世界の歩き方』(文藝春秋)、フランク・ロイド・ライト『浮世絵のみかた』、ダグラス・ウォーク『マーベル・コミックのすべて』(作品社)、ムスタファ・スレイマン『THE COMING WAVE AIを封じ込めよ DeepMind創業者の警告』(日本経済新聞社/日経BP)、「スター・ウォーズ」シリーズ、『アベンジャーズ エンドゲーム』『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』(いずれも講談社)、マイク・バーフィールド『ようこそ!おしゃべり科学博物館』(すばる舎)、ミネルヴァ・シーゲル『ディズニーヴィランズ タロット』(河出書房新社)、など多数(日英翻訳を入れて100冊以上)。
●自閉スペクトラム症の著者が紡ぐ言葉
−− 『鳥の心臓の夏』は、自閉スペクトラム症(以下、自閉症)の作家によって書かれた小説です。
上杉:この本は、著者のヴィクトリア・ロイド=バーロウ自身が当事者ですから、とても自然に自閉症の主人公を描けていると思います。著者のヴィクトリアと主人公のサンデーにとって普通のしゃべり方で物語が進行します。
サンデーの語りで綴られているわけですが、もし、このサンデーという人物を定型発達者が描いたとしたら、すごくデフォルメされたものになるかもしれません。自然に描けているのは、サンデーの言葉が著者自身の言葉でもあるからです。
−− 著者のヴィクトリア氏は、ケント大学でクリエイティブ・ライティングの博士号を取得しています。この本は2023年のブッカー賞(*)の候補にもなりましたね。
上杉:この本は朝日新聞出版の名編集者、森鈴香さんからお声がけいただいたのですが、どうやら僕の前に何人かの翻訳者に断られたみたいです。
−− 翻訳が難しいということでしょうか?
上杉:そうだと思います。難しかったところはやはり、比喩表現です。比喩を表現するas if が原著には254ヶ所も使われていますし、as thoughもかなり多く使われています。作家は非常にシャープな頭でこの比喩表現を描いたと思います。比喩表現がすごく美しいんですよ。
上杉隼人氏(本人提供)
ただ、翻訳は難しい。as though というのは文章の後ろについているケースが圧倒的に多く、そのまま原文の順序通りに訳すというのが鉄則なのです。ただ、ヴィクトリアが描く比喩が非常に長いために、順序通りに訳すと前の文と後ろの文のつながりが悪くなってしまうのです。例えばそれは、因果関係の原因と結果がすごく離れてしまうようなものです。
−− 「原因(前の文)+ 長い比喩(前の文)→ 結果(後の文)」となり、読みにくくなってしまう。原因と結果をつなげて読むことができないから。
上杉:そうなります。そこで比喩を前にもっていく作業をします。
−− 「長い比喩(前の文)+ 原因(前の文)→ 結果(後の文)」とする。
上杉:ただ、こうすると日本語の訳の作り方がすごく難しくなってきてしまうのです。文の始まりが長くなるし、回りくどくなる。ですからそこをうまく読ませるのはなかなか大変でした。こういう翻訳はあまりしたことがありません。
もちろんこういった悩みは、翻訳家がずっと抱えてきたことです。昔の翻訳も今の翻訳も、「〜のようだが。」と文が「ぶつ切り」になっているものを時々見かけます。でもそうすると、文章のスピード感がすごく落ちてしまうのです。それに、比喩表現だけが浮いてしまいます。そうならないように、一文は長いけれども自然に一読で理解できるように読んでもらうことにこだわりました。
−− 冒頭の一説に次のような比喩表現がありました。 後の一文は、猫の比喩表現です。
それはパクパクと何でも食べて見る見る大きくなる生き物のようで、日々わたしとあの子を引き離してしまうように思えたのだ。
まるで小さな政治家のようで、体に触れられることは心地よく思わないが、礼儀正しく見せようとする様子はうかがえた。
上杉:そういった文が、散りばめられているのです。ヴィクトリアがこういった描写を意図的に書く作家であることがわかったので、そこは正直大変でした。ただ出版後の書評では、比喩表現や描写の美しさについて評価してくれるものが多かったので、上手くできたのかなと思っているところです。(*リンクは他のサイトに飛びます。)
それにタイトルにある「鳥の心臓」も、比喩ですからね。
−− そうか。タイトルも比喩なんですね。
上杉:それが一番大きな比喩なんです。必ずしもプラスの意味ではありません。美しい鳥をわなのおとりに使い、寄ってくるものを殺してしまうということなのですが、このタイトルの意味を考えながら読んでもらえるといいのではないかと思います。
●母の背中を見て
−− 自閉症の方のボランティアをしているとお聞きしています。きっかけを教えてください。
上杉:そうですね。きっかけは母になると思います。母は東京から群馬に越した人です。東京で苦労し、群馬で暮らすことになったわけですが、けっこう苦しかったのではないかと思います。当時住んでいた場所は本当に田舎で、東京育ちの母にとってはショックだったのではないかと思うんですよ。仕事も全然ないですから。
私の父は小学校の校長先生をしていたので、母にもある程度、地域への影響力があったわけです。ですから、母が自閉症の子どもをサポートすることで、地域で当たり前に自閉症の子どもたちを受け入れることができる素地をつくることができたのではないかと思います。もちろん町自体が、それがなんとなくできるような雰囲気だったということもあります。
ですから、僕が自閉症の人をサポートしたいと言ったら、すごく喜んでくれました。群馬でもごく短期間ですが一緒に活動した時期がありまして、お漏らしをした人の着替えなども、母親のおかげでできるようになりました。
−− お母様と一緒にボランティアに通われていた時期があるのですね。
上杉:はい、その後大学生になると東京でボランティアでサポートをするようになりました。その後も続けていて、今一番多く行っている活動は、車での外出や送り迎えです。不意に大きな声を出してしまったりするために、外出しにくいという人がいるからです。車の運転は好きなので、全く苦になりません。会社を退職したら、もっと時間を使いたいと思っています。
僕はこのボランティア活動を通じて、自閉症の文化が受け入れられていないということを実感しています。そして本書の中でも、それが起こっています。例えば主人公のサンデーは植物に対する深い知識を持ち、それを生かして農場で働いているのですが、おそらく低い賃金で働いていると思います。
サンデーのような状況にある人は、現実の世界にもかなりいるはずです。それは施設でボランティアをしていても感じます。障がい者であっても、専門の知識を持ち、定型発達者と同じか、それ以上に質の高い仕事ができる人がいます。そんな人たちの仕事が評価されず、ふさわしい賃金が支払われないのはとても残念なことです。
―― 大江健三郎さんと光さんにも大きな影響を受けたそうですね。